2020/05/16 01:11

今回から連載ものの記事を書いてみたいと思います。

テーマは「差別」について、今回は「多様性」という観点で差別を検証してゆきます。

ダイバーシティという横文字も一般に定着して久しい概念ですが、どれくらいの人が「多様性」を意識して生活しているでしょうか。
また、「多様性」を意識する場面とはどのようなものなのでしょうか。

アートや文学など、広く表現に関する分野では多様性の重要性がすでに認知されています。
それは表現の土台が文化であり、文化は文明と異なり縦方向だけではなく横方向にも広がりを持つものであることが一つの重要な要因だといえるでしょう。
(このあたりはレヴィ=ストロースが構造主義を唱える中で明らかにした概念に近いものですね。)

それでは文化の違いとはどのようなもので、何が差異の要因なのでしょうか。
まずは国の違いがあげられます。
同じ年代でも、日本の絵画とオランダの絵画では大きな違いがあることは明白です。
さらに人種も大きな要素です。同じ年代、同じアメリカ内の文学でも、白系とアフリカ系の作家ではテーマが大きく異なることが一般的ですね。

このような文化の違いに基づく差異は、もちろん芸術だけでなく、広く社会生活全般に及んでいます。
文化の多様性、ひいては社会の多様性を促進するために設けられた制度こそが、多様性とともに今日のサブタイトルに挙げた「アファーマティブ・アクション」なのです。

聞きなれない言葉ですが、もしかすると、大手企業や官公庁への就職活動などを通して、すでに知っている方もいるかもしれません。
なぜならば、今日の日本において、「アファーマティブ・アクション」とは、就職などの際、主に女性の優遇措置として用いられているからです。

ここで、男性と女性の表現の差が、国家や人種の違いと同様の差異を生むのだろうか、ということを考えてみてください。

芸術の面から言えば、おそらく「女性ならではの柔らかで繊細な表現が…」や「男性的な力強さと情熱が…」という言葉が、すでに意味を持たなくなっていることにお気づきかと思います。
(もちろん、一つの「傾向として」そのようなこともあるかもしれませんが、かならずしも多様性を論ずる上で重要なファクターとなりえないことは明白でしょう。具体的に言えば、作品だけを見て製作者が男性か女性かを当てることは、国家や人種の区別をする以上に難しいことでしょう。)

当然これは芸術に関してのみではありません。
男性にしかできないこと、女性にしかできないことは、生理学的なことを別にして、存在しないからです。
さらに性自認や性指向を鑑みれば、そもそも男女というカテゴリ自体も不確実なものだということができます。

それでは、日本におけるいわゆる「アファーマティブ・アクション」(女性に対する優遇措置)は不要なもの、あるいは間違ったものなのでしょうか。
誤解を生まないためにも結論から言えば、これは間違いなく必要なものです。

この制度についての批判的な声の一つに、「逆差別だ」というものがあります。
これは、男性も女性も能力に差異はないのだから、女性だけを優遇することは女性をバカにするもので、優秀な男性にも害となるものだ、という主張です。

一例をあげますと、2019年の裁判所事務官という総合職国家公務員の大卒区分採用試験では、男性382人、女性229人の申し込みがあり、最終合格者は男性2人、女性5人でした。
(具体的に女性であることが採用に際しどのような優遇を受けているのかは不明ですが、近年は例年とも、女性のほうが低倍率となっています。)

確かに、逆差別であるという批判は、この例だけをみると理解できるような気もします。
ただし、「アファーマティブ・アクション」の本来の目的やその歴史を知れば、「逆差別である」という主張が、すでに裁判によって不適当なものであると明らかになったことがわかるのです。

元々のアファーマティブ・アクションは、アメリカにおけるアフリカ系アメリカ人に対する優遇措置として、公民権運動の中で生まれたものでした。そして当初、それは「これまで差別してきた補償」であるという位置づけで運用されてきました。
ところが、とある大学の入試に際し、アフリカ系合格者の最下位の者よりも白系不合格者の最高位の者のほうが成績が良いのはおかしい、これは白系にたいする「逆差別だ」という裁判が提起され、連邦最高裁判所まで持ち込まれることになったのです。

たしかに純粋な合衆国修正憲法に照らせば、アフリカ系を優遇する(相対的に白系を不利にする)ことは人種による差別に該当してしまいます。しかし、思わぬ政治的なところから助け舟が出たのです。

助けを出したのは軍、正確には軍の士官学校でした。
アメリカの軍人、特に将校ではない下士官は歴史的にアフリカ系の比率が高く、アフリカ系の将校が減ってしまうと、軍の上層部と下士官の人種的差が大きくなりすぎてしまい、軍が機能不全に陥ってしまうと主張したのです。
(軍の士官学校ではこのような問題を避けるために、アフリカ系の優遇措置(アファーマティブ・アクション)を採用していました。)

これにより、ほとんど政治的な配慮によって、アファーマティブ・アクションによる大学入学時の選抜はおおむね認められることとなりました。
そしてこの時から、アファーマティブ・アクションは「これまで差別してきた補償」ではなく、「多様性を担保したほうが社会にとってプラスだから」という前向きな解釈がされることとなったのです。

今でも日本では、「女性は差別されてきたから優遇しなきゃ」という観点でアファーマティブ・アクションを語る人が多いですが、現在は「多様性」のために、つまり社会のために優遇措置を講じているのです。
はっきり言ってしまえば、男女の出生率がほぼ半々であるなら、社会で活躍する男女比率も半々であるほうが社会には良いのです。

アートの分野で話を進めましょう。
確かに男性だから、女性だからと表現できることに違いはありません。ただし、男性のアーティストしか活躍していない分野があったとしたら、将来優れたアーティストになる可能性を秘めた女性の進出の可能性を、つぶしてしまうことにならないでしょうか。

これについては、「優れたアーティストなら、そのような弊害を乗り越えられる」というような反論があるように思いますが、そのような人はぜひ、ヴァージニア・ウルフの「自分ひとりの部屋」を読んでみてください。
女性だからとアートの才能をつぶされてきたという事実の歴史を読み、空想の反論ではなく実際の問題、傷ついている人に目を向ける姿勢を得られるはずです。

ダメ押しで具体例を加えれば、例えばルネサンス以前の油画の歴史で、何人の女性画家が思い浮かぶでしょうか。おそらく0か、多くとも1~2人なのではないでしょうか。
当時の社会的な風潮が、女性に油画を作成させなかったことがこの原因です。絵筆をとっていれば、ダヴィンチ以上の才能を秘めた女性も当然いたはずなので、女性民権的な文脈を無視しても、当時の女性進出の遅れが、現代の芸術界への大打撃となっている、ということができるのです。

現代とルネサンス以前は違う、という人も多いと思います。
それでは、現代アーティストといって思いつく作家は、男性と女性、どちらがどれくらい多いでしょうか。

女性アーティストの皆さんは、自分たちが絵を描くという「戦って得られた権利の先」で制作する=戦っているのだと、今一度、振り返ってみてください。皆さんの先に、未来のアーティストの可能性が芽吹くのです。

この記事を読んで、少しでも多くの方が正しいアファーマティブ・アクションについて理解を深め、男性も女性も、それ以外の自認をお持ちの方も、間違っても「差別なんか乗り越えればいいのだから優遇は逆差別」という思考停止に陥らないよう、切に祈っております。