2020/06/30 13:56

アートと差別と題して連載してきた本blogですが、前回の記事に続き、第四回のテーマは「ポリティカル・コレクトネスとは何か」としました。ポリティカル・コレクトネスという言葉には聞き覚えがなくとも、「ポリコレ」という言葉に聞き覚えのある方は多いのではないでしょうか。


ポリティカル・コレクトネスとはその名のとおり、「政治的に正しい」という概念です。
わかりやすい例でいえば、最近「障害者」という言葉を「障碍者」や「障がい者」に言い換えることが多くなったのは、まさにポリコレの影響です。これは、「害」という文字が社会的にマイナスのイメージを持ち、障がい者に対する悪い印象や誤った印象を与えるおそれがあるために用いられるようになった用語の言い換えです。

同じようなもので、古い小説ではよくみられた「おし」「びっこ」「よいよい」などの、いわゆる差別用語を使わなくなったというのも、現代的に言えばポリコレの影響です。

目立ったところだと言葉の言い換えが主になるので、ポリコレについて「言葉を言い換えただけで差別はなくならない」「言葉狩りだ」という意見が、主に反対派から提言されることがあります。この主張はもっともですが、だからといって差別的表現を放置してよいのかというと、私は疑問に思います。

ポリティカル・コレクトネスというものを支持するか否かは、俗にいう「自浄作用」を信じるか否かにかかっているのではないでしょうか。
つまり、ポリコレという押し付けられたルールによらずとも、人間は内面から世界を「善く」することができるということを信じる人間であればポリコレは不要であると主張し、そうでないと信じる人間は、ポリコレによって世界を「正しく」保つべきだと主張しているのではないでしょうか。
(そもそも「善く」「正しく」に興味がないというアナーキストやニヒリストの主張は除外します。)

ここにおいて、ポリティカル・コレクトネスの賛否はあくまでも形而上の話に終始します。
ただし、ポリティカル・コレクトネスを「表現」の枠に当てはめようとすると、それは形而下の、つまり私たちの創作活動に直接かかわる話になるのです。

先に例示した「言葉の言い換え」も、日本国内のテレビ放送に当てはめて考えると、「放送コード」という具体的なルールとなり、表現を制限する枠組みとなりえます。

この「放送コード」という用語自体、「放送禁止用語」などと並んで法的に定められたものではなく自主規制に類するものであり、一種の自浄作用が顕現したものだという見方も可能です。
一方で、現在の民放において、差別的な意図がない番組はどれほど存在しているでしょうか。

一つ一つの番組を論ずることはしませんが、一昔前にはやった「おバカタレント」や、最近もよく見る「ブサイク芸人」「デブ芸人」、さらには、ことさらプレデター的な印象を強めた「おネエ」など、視聴者の差別的優越感や生理的嫌悪感に働きかけ笑いや話題を創出する構成の番組がいかに多いかということは、実体験として皆さんも感じていることでしょう。

ここで、ポリコレの反対派は、「やはりポリコレは形骸化したルールしか作らない。本当の意味での差別解消などには役立たないんだ」という意見を表されるでしょうが、それはこの「放送コード」が成立した背景を理解し、はたしてこれは正しいポリティカル・コレクトネスなのか、と考えることで誤解だとわかっていただけるはずです。

そもそもポリコレは、「批判を避けるための指標」ではなく、「批判を恐れずに正しいことを行うための指標」である必要があるのです。

放送コードを例にとると、この自主規制は運用上、「クレーム」により更新されているという性質があります。
つまり、文句を言われる言葉のリストになっているということです。

これは、放送法が「世論の形成に貢献する」ことを目的としている以上やむを得ないものであり、また業界団体や立法府で「言ってはいけない言葉」を制定することは表現の自由を脅かす重大な危険があるため当然の帰結であるともいえます。

ただし、そのようなリストは必ずしも「正しい」かというと、もちろんそうではありません。
視聴者は番組へのフィードバックを政治的・倫理的な見地から行うわけではなく、さらに、放送業界も営利企業の集まりなのですから、マーケティング的な正しさ(=質より量)こそが「正しさ」であり、クレームの中に一部ポリティカル・コレクトネス的な意見があったとしても、それを最優先させるわけではないからです。

それでは、本当の意味でのポリコレとはどのような指標なのでしょうか。
今度は大ヒットしているゲーム「The Last of Us Part II」を例に取りたいと思います。

「The Last of Us Part II」はいわゆるゾンビサバイバル系のゲームであり、これまた大ヒットした第一作目のゲームの続編にあたるものです。内容説明はしませんが、同性愛表現や女性リーダーなどが人種に関係なく物語に登場する、非常にクィアな作品です。

ゾンビサバイバルという男臭い世界観において、このような表現を自然に行う点はそれだけでポリコレ的な評価に値しますが、一部のファン、特に、第一作目からのファンの中には批判的な意見を述べる方も多くいる作品です。
批判の内容を詳説すると「ネタばれ」になってしまうので避けますが、第一作目以上にダイバーシティな内容になった点、特に、意図せずそのような流れになったのではなく、「ポリコレによって」そのような内容に改変されたという点が批判の的になっているようです。

今回の例では、確かに「ポリコレ」の指標を取り入れたことで、話の筋や主要キャラクターの状況に第一作目と比べて大きな変化があり、第一作目を愛していたファンには受け入れがたい面もあったことと推測します。

ただし、このように既存のファン層からの悪評を恐れずに「正しい」ことを行うことこそが、放送コード的な「ポリコレ」ではなく、本来の意味の「ポリティカル・コレクトネス」だと思います。
なぜならば、ポリティカル・コレクトネスの目的は「クリーンなイメージで売り上げアップ」などではなく、政治的に正しいメッセージを積極的に発信することで、世界を偏見や差別から解き放ち正しいものに保つことだからです。

ここまでの話で、おそらく「正しい」とは何なのか。誰が決めるのか。また、強者から弱者に押し付ける正しさは偽善なのではないか。など、正しいという概念の定義に疑問を感じる方も多いと思います。
たしかにこれがポリティカル・コレクトネスを説明する際の難しい点で、個人個人、団体ごとの主観によるとしかいうことができません。一部の団体が定義の説明を行おうとしていますが、全世界標準のルールにしてよいものかというと疑問でしょう。

ただ、これは個人的な意見ですが、このような「疑問」は理性的には正しいように感じますが、本質的には不要なものだと思います。
なぜならば、「政治的に正しい」ではなく、「人として何が善いことか」と考えれば、共同体で社会生活を営んでいる以上、それは定義せずとも各々の尺度が大きく変わることはないと思うからです。

では、「ポリコレは結局自己満足なのではないか」という意見についてはどうでしょうか。
これは「偽善」という言葉とならんで、チャリティーや国際協調、イニシアチブの加盟に際し必ず付きまとう批判です。

しかし少なくとも、ポリティカル・コレクトネスを取り入れることにおいては、偽善以上の一定の効果があるということができます。

先の「The Last of Us Part II」の話に戻ります。
これは大ヒットしたゲームの続編であり、さらにポリコレに普段から興味がないような層までをもユーザーに含む商品です。
このようなフィールドで多様性やクィアな世界観を表現することは、世界中のユーザーに働きかけ、特に若年層の意識形成に大きな影響を与えます。(本作がR指定であるということは、すでに「プレイ動画」というものが大手配信サイトで認められている以上関係がないため、若年層も想定しています。)

メディアやゲームの「世界観」がユーザーの意識形成にどのような影響を与えるのかについては疑義があるところでしょうし、私自身も、いわゆる「ゲーム脳」的な非科学的かつPTA的な意見には懐疑的です。

一方で、幼いころに親しんだ絵本や、思春期に好きだったテレビ、学生時代にはまったゲームなどが自分自身の人格形成にどのような影響を与えるかは、皆さん自身の経験に照らして考えると、必ずしも否定できないものでしょう。

つまり、多くの人間がアクセスする商品を、「マーケティング的な正しさ」ではなく「ポリティカル・コレクトネス」に基づいた構成にすることで、全世界の「あたりまえ」という水準を、外部から徐々に善良なものとすることにこそ、ポリティカル・コレクトネスの意義があるのです。

この前提を踏まえたうえで、なお「ノイジー・マイノリティ(声高に権利を主張する少数派)のために多数派が負担を強いられるのは民主主義の原則に反する」という主張をする人もいます。

このような議論については、多分に政治的、かつ恣意的なものになりがちですので、ここで論ずることはしません。ただし、以前記載した、アファーマティブ・アクションに関する記事をご一読いただきたいと思います。

翻って、皆さんが作品を制作する中で、もしもストーリーラインがあるようなものに挑戦しようとしてるのであれば、ぜひ「普通の」世界観ではなく、多様性にあふれた世界観が舞台となるようにしてみてください。
そしてぜひ、「同性愛者というキャラ」「有色人種というキャラ」ではなく、多様なバックボーンや自認を持った人々が「普通の」生活を送っているという、ポリティカル・コレクトネスにのっとった世界観を創造してみてください。

それは必ずしも制作の枠を狭めるものではなく、新しい表現、新しい制作意図を刺激する取り組みとなるはずです。

また、作品の制作において多様性に配慮するポリティカル・コレクトネスを指標とする場合、以前環境配慮とプロモーションの記事で述べたように、SDGsの目標達成に貢献することとなります。
例えば弊社においても、多様性に配慮したコンセプトを有するか否かは、取り扱う作品の評価項目に設定しています。

アート作品を購入する層、特に、高額の作品を購入する層は「保守的な老年層である」というのは過去の話です。
国際的なマーケット(特にアジアマーケット以外の米国や欧州)を見れば、リベラル派の若手実業家や企業・団体も購入者になることが多く、そのような層は、いずれもSDGsなどの国際的指標に敏感です。

作品の主題に社会的テーマを込める、特に、差別の撤廃や女性の権利向上をテーマに据えることで、対外的にはポリティカル・コレクトネスな活動となり、また新しい顧客を開拓することにつながる可能性もあります。

ポリティカル・コレクトネスは「販促の材料」ではありませんが、アートの世界においては、顧客のニーズと合致する場合も多いので、ぜひとも、作品のテーマの一つとしてポリティカル・コレクトネスを意識してみてください。
自分自身の作品表現の幅を広げつつ、より開かれたマーケットで注目してもらえるような作品を制作するための手助けになってくれるはずです。